チェンソーマンを読め
どうも。
ゑです。
チェンソーマンをとっとと読みましょう。
こちらからは以上です。
いかがでしたでしょうか!
このお話が役に立った方はチャンネル登録、高評価、通知マークの設定を、お願いします!
それでは!
はい、もう少し喋りますよ〜
チェンソーマンという絶賛少年ジャンプ連載中の最高な漫画がある。
まだ読んでない、あるいは読んでいるけど単行本派だから、、、というアナタ。
とっとと全巻買ってジャンプのバックナンバーアプリで買って最新話に追いついてください。
なんでかって?
以前もこんなことがあっただろう。
アニメなら、あの花の最終回、シュタゲの最終回、まどマギの最終回…
僕にも覚えがある。
最近だとカクシゴトがそうだった。
あの時皆の狂乱に加わっていれば…
冷静さの欠片も無く、情熱による言葉だけで会話していれば…
いや、会話なぞしなくてもいい、吐息だけが宙に浮くその地で、自身の息も混じって、生温い体温を感じられていたら…
オタクは冷静になるのが早いので、多分あと二週間もしたら落ち着いているだろう。
自身が狂乱の最中に漸く身を置けたとき、周りのクソオタから「あーあの回ついに見たんだ?ビビるよね」みたいな、殺風景な、低体温な、「俺はもうあのときの傷は癒えたよ」という感じで終わってしまうんだ。
自分と相手と、流れている時間が絶対ではないことを感じてしまう、そういう瞬間が、誰しもあったと思う。
だからこそ
リアルタイムのグルーヴを感じろ、オタクたちよ。
もう一度言います。
チェンソーマンを読め。
こちらからは以上です。
あ、あともちろんファイアパンチもオススメです。
【以降ネタバレ】
多分、チェンソーマンはヒーローになるんだろうな。
戻ってくれと願っていたのに。
周りの、何にも知らない有象無象に縋られて、そいつらを助けようとしてしまって。
そうしてアキを殺したことによって。
気になることが一つ。
この後、チェンソーの悪魔は「恐れ」を抱かれるのだろうか。
あれ、悪魔の強さは…
最後にキャッチボールが出来て、良かった。
ちなみに僕はマキマさんが好きです。
『Star Wars: The Rise Of Skywalker』は面白いのか
どうも僕です。
今回はStar Warsシリーズ最新作、エピソードⅨにあたる『Star Wars: The Rise Of Skywalker』(邦題:スカイウォーカーの夜明け)、並びに新三部作全体に関する雑な感想を書こうと思います。
あ、ネタバレ全開です。
あと、そこそこ長いです。
ちなみに僕は、「スターウォーズ大好きっ子」、悪く言えば信者かも知れないです。
本当に大好きなんです。
Ⅳ〜Ⅵはもちろん、賛否両論あったエピソードⅠ〜Ⅲ、もっと賛否両論(これに関しては否の方が多いかも知れない)エピソードⅧでさえ、好きです。
そんな僕がこの映画にフラットな感想を述べるのは難しいです。
ですが、頑張って書こうと思います。
先に分かりやすく点数で結論を述べれば、この映画は
・減点方式なら「65点」
・加点方式なら「5億点」
です(これは親愛なる友人のおかげで気付けました)。
まず先に良かった点から書こうと思います。
良かった点1.とにかく演技が素晴らしい
これに関してはおしなべて素晴らしかったんだけど、強いて二人だけ挙げさせてもらうならば、フィン役の「ジョン・ボイエガ」、そしてカイロ・レン役の「アダム・ドライバー」です。
ジョン・ボイエガは、三作通じてとても安定していて、元ストームトルーパー、シリアス且つユーモアたっぷりの、まさに「新しいスターウォーズ」を体現してるかのようなキャラクターを演じてくれました。
全てのバランサーでもあり、安心するために、フィンというキャラクターを観たくてたまらない自分がいました。
本当に素晴らしかったです。
元ストームトルーパーという、まさに「名も無き兵士」から、「かけがえのない戦友」になった、本当にこのシリーズを通じて深みを増した、最高のキャラクターでした。
そして、カイロ・レン。
三作を通じて演技力が一番伸びたのはこの人ではないでしょうか。
というか、エピソードⅨの彼の演技、全体を通じて化物すぎます。
マジで何者なんだ。
ダークサイドからライトサイドへ、簡単には言えますが、ダースヴェイダーとも違う、アナキンとも違う、そんな役を全うしてくれました。
まさにヒールからヒーローへ、新作を代表してくれる役回りを見せてくれました。
ただ、マスクはマジでダサいです。
良かった点2.旧作キャラの活躍の仕方
これは本当にバランスなので、感覚的な話なのですが、ルークもレイアもランドもハン・ソロも、距離感が絶妙で良かったと思います。
しっかりと若人を導こうとしてあげる振る舞いがよかったですね。
「加点式で5億点」と言いましたが、大体がこの人たちのおかげです。
ライトセーバーを「雑に扱うな」と嗜めるルーク、今世紀最大の「お前が(お前も親父も師匠も)言うな」ですし、レイアのライトセーバーを渡し、Xウィングを持ち上げるシーンで「あ、好き、、、」となってしまいました。
ランドも、本当に「老人に頼るなら経験とコネ」を体現してくれましたね。
全く嫌味も違和感もなく、立ち上がる人たちを導いてくれる、それはエピソードⅣ〜Ⅵがあったからでしょう。
軍隊や戦闘機でなく「民間機です」、これ本当に最高。
そして、レイア。
フォースの冥界へ行くタイミング、あれはズルです。
ズルなのでダメです。
その前のハン・ソロとレンの掛け合いも相まって、本当のズルです。
好き。
良かった点3.ファンが喜ぶシーン満載
レイの修行、ランドとの再会、Xウィング持ち上げ、エンドアでの戦い、パルパティーン戦でのジェダイたちの声、挙げたらキリがありませんが、スターウォーズシリーズを知っている人ほど楽しめるシーンがたくさんあり、「シリーズ」であることの意義がありました(この辺はのちに悪い点としても述べます)。
とまぁここまで色々褒めましたが、ここからが本題というか、残念な点の話をします。
残念な点1.三部作の意味が本当に薄い
これは皆さん感じたのではないでしょうか。
エピソードⅦはⅣの焼き増し、Ⅷは何も進まず仲間割れ、Ⅸで急に出てくるラスボス、、、
どれも単作で見れば魅力的なんですよ。
だけど、三部作として考えるなら、マジで微妙すぎます。
キャラクター単体の成長譚は分かるんですけど、しっかりと軸があるストーリーが欲しかったな。
残念な点2.結局パルパティーン!?
上記とも関わるんですが、え?パルパティーンなの?
これもうスターウォーズ好きな人みんな分かってると思うんですけど、そもそも「パルパティーン」ってmarvelでいう「サノス」じゃなくない???
「昔からずっといた!最強すぎ!勝てない!」みたいなキャラクターじゃないんですよ。
シスの最強ならもっと適任がいるわけで。
まぁ分かるんですよ?
映画の中で考えるならパルパティーンしかおらんのよね??
でもじゃあ、一回倒したパルパティーン倒すためにまた三部作のやる意味って何?てかⅨまでに何も示唆なかったよね???
残念な点3.フォースの扱い
あの、フォースって何ですか?
ぼく、エピソードⅠ〜Ⅵまでで何となく分かった気でいたんですけど、まだ分かってませんでした。
教えてください。
という感じになってしまいました。
フィンが「フォースを感じられるようになった」のだけは本当に良かった。
だけど、実際劇中でのフォースは「万能解決策」みたいな、ドラえもんの便利グッズ化しちゃってて、本当に残念でした。
ライトセーバー転送のとこは勢いでもう何か良くなっちゃってたけど、冷静に考えると意味がわからない。
あと、ルークがXウィング引き揚げたのも最高なんだけど、霊体が現実に影響与えるな。
ヨーダに何を習ったんだ。
残念な点4.マジで媚びすぎ
良い点3でも挙げてたやんけ、こいつ人格乖離か?
となりそうですが、一旦落ち着いてください。
スターウォーズが好きな人のファンサービスって、例えば「腕を切られる」とか「ライトセーバーを落とす」とか「いつかお前に殺されそうだよ」とか「ブラ=サガリ」とか、そういうやつなんですよ。
「あーまたやってるよハハッ、最高」みたいな。
でもね、「ストーリーの焼き増し、オマージュ」はマジで意味ないんだよ。
同窓会の懐かしネタかよ。
あれやって!あれやって!めっちゃなつかし!ウケる!!
本当に、全然良くない。
結局ここに終始してしまいますが、「新三部作」というなら「新しさ」を見せてよ。
エピソードⅦ〜Ⅸの新しさって何?
結局Ⅸも血の話になっちゃったし、もっと新しいストーリーにして欲しかった。
血の話はⅠ〜Ⅵでもうやったのよ。
折角「何者でもない」フィンや「グレーサイド」のカイロ・レンという素敵なキャラクターを創ったのに、勿体無いよ。
確かにⅨは偉いと思ってしまうんですよ、よく纏めたなと思いますよ。
でも勝手に始めたのお前らだからな?
全然偉くないんやぞ?
残念な点5.露骨なコンテンツ化をするな
例えば、MCU化。
あ、マーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic Universe)のことです。
エンドゲームは確かに素晴らしかったし、面白かった。
でもそれをスターウォーズにまで持ち込まないでほしい。
正直、「ハン・ソロ」の映画のストーリー、酷かったぞ。
「ローグワン」のレベルの話を作れるなら分かる、でももう「ローグワン」あるから、かなり難しいよ(注:筆者は「ローグワン」が一番好き)。
ジャンプの作品と同じで、名作だからっていつまでも引き伸ばして、面白いエピソード、面白くないエピソードを乱立させていくのは、あまりよろしくないよ。
あと、イウォークとか、分かりやすいキャラの扱い。
彼らは戦ったんだ。
その上、素敵で可愛いんだよ。
そうじゃない作り方は、やめてほしい。
さて、まとめに入ります。
もう一度言いますが、ぼくはこの映画、並びに新三部作であるⅦ〜Ⅸも嫌いになれませんし、好きです。
全てのアクターに拍手を送りたい。
あと何回も観ると思う。
ただし、新しく三部作として映画を作った意味があったか、という点に関しては、非常に懐疑的です。
多くの人々がⅨのパンフレットの時代表記に怒ってましたね。
今までは「ヤヴィンの戦い」の前か後か(BBY or ABY)、っていう基準だったんですけど、それが急に「スターキラー事件」の前か後(BSI or ASI)に変わってるという。
要するに「エピソードⅣ」基準が「エピソードⅦ」基準になったということ。
時代基準を変えるということは、スタンダードを新三部作に持っていきたいということ。
そこまでやるってことは、ちゃんと旧作品たちを、ストーリーの面で乗り越えてほしい。
旧作から観てる僕らのカタルシスには「エピソードⅣ〜Ⅵ」がどうしたってあるんだ。
それを乗り越えたいのなら、うるせぇ老害ファンにも媚びずに、「新しい」サーガを紡いでほしい。
僕はそれを切に望んでいます。
以上です。
ちなみに三回泣きました。
『Frozen Ⅱ』の感想、雑に。
少し遅くなったけど、『Frozen Ⅱ』を見てきました(冬なので)。
個人的には前作よりも面白かったです。
以下ネタバレガンガンでいきます。
(話は逸れますが、前作はあまりに主題歌の推し方が下品すぎて、辟易してました。「This is me」とかもそうだけど、リアルの人間たちが自分の免罪符として使ってるの見ると腹立ちません??????)
ストーリーの中で個人的に面白かったのは、精霊信仰の話です。
特に精霊、例えば水の精霊「ノック」なら「ケルピー」や「ウンディーネ」などがパッと思い浮かびますね。
そんな精霊信仰を重んじるノーサルドラ族の元ネタは「サーミ」であると明かされていますが、総体として見ると、僕はこの話「ネイティブアメリカン」の話と少し重なって読めました。
精霊信仰をする民族(ノーサルドラ族)と王国の衝突という表面上もそうなんですが、王国側、つまりルナード国王(アナやエルサの祖父)が「ダム」を贈るというところ、僕は「なるほどなぁ」と思いながら見ていました。
「ダム」というのは、ある種「自然」をコントロールしようとする近代の思想を体現しているようにも思えます(まぁ起源は古代エジプトらしいんですけど、そんなこといったら僕はビーバーだと思う[注]ので無視します)。
ですので、近代的思想の対立が如実に表されてると言えるでしょう。
実際、この「ダム」は、国王がノーサルドラ族の精霊信仰を恐れたゆえに造られたものです。
ネイティブアメリカンの精霊信仰に関しては言うまでもありませんが(ココペリとか)、迫害者はかなりこうした信仰を恐れます。
精神の強さは侮るなかれです。
ネイティブアメリカンの話だと、例えば「ゴーストダンス」の話が想起されますね。
踊りによって死者の魂が蘇り、楽園へと行ける、なんて、なんとも突拍子もないように思えますが、デカルトしかり、肉体はあくまで精神の器として考えられます。
つまり、例え肉体が傷つこうと、精神としては無敵なわけです。
こうした考え方は当時の迫害者たちからすればまさに「反逆」「蜂起」に見え、そこから「ウンデット・ニーの虐殺」に繋がっていきます(この辺あんまり詳しくないので間違ってたらすみません)。
まぁそれはさておき、「Frozen Ⅱ」で僕が評価したいのはヒーローの血筋を「悪」として描いた、というところです。
「父親殺し」はプロットとしてもありがちですが、血脈至上主義的なディズニーにおいてこれが表現されることには意義があるように思えます。
その辺を全て受け止めて、血脈として受け継がれた意志を背負い、アナとエルサの二人が調和を創ろうとしていくのは、ディズニー映画として、良いと思いました。
自分の根源的なルーツを辿り、運命に抗うでもなく、従うでもなく、受け入れていこうとする、そんな映画なのかな、と思いました。
それは贖罪というよりは、もう少し希望に傾いたものではないでしょうか。
という良い感じで終わろうと思いましたが、
ただ一つ強く批判させて頂きたいことがあります。
「地の精霊」、アース・ジャイアントくんをテンプレ脳筋バカ巨人岩石投擲大暴れエクスプレスにするのはやめてください。
世の中の岩タイプに失礼です。
(当ブログは陰キャ岩タイプの皆様を応援しています。)
以上雑な感想でした。
なお、こんな雑記よりしっかりとした面白を読みたい方のために彼の者の記事も載せておきます。without wax...
https://sethsx.hatenablog.com/entry/2019/12/21/011826
[注]読み直して気づいたんですが、僕は自分のことをビーバーだと思ってるのではなくて、ダムの起源がよく知らんけどまぁビーバーが作ったのが最初なんじゃない?って意味で書いたんですけど僕はビーバーです。
インターネット正義マンとコンテンツの話
みなさん、インターネットって知ってますか!
とても便利なので、ぜひ使ってみてください!
それでは!
はい。
というわけで、なんとな〜くインターネットに蔓延る有象無象の話を軽〜くしようと思います。
リテラシーが低過ぎる
近年のあらゆるインターネットコンテンツに関して言えること、それはリテラシーの低さ。
簡単に言えば、めちゃくちゃバカな人が結構いるんです。
ニーチェ先生も、全員が読み手になる時代を危惧してたわけだけど、まさに危惧すべき状況になってる気がします。
どんなバカがいるのか
色んなタイプのバカがいます。
例えば自分語りバカ。
はい、こういう人ですね。草を生やすな。
僕は頭がいいので「知らんがな」と返しています。
そしたらこうなりました。
そんなことってある!?まだ語る!?
このリプライが来た時は吐きながらのたうち回りました。
あとは普通のバカ。
これ見て僕は「無理」となりました。
俺自身が「無理」になることだ…。
正義マン
でもこの人たちはまだ良い方で、近年のツイッターには「正義マン」と呼ばれる人が沢山います。
僕は個人的に「教養のなさ」「自己の肥大化」「勘違いした多様性」の三点から生まれた存在だと考えています。
「教養のなさ」というのは、単に様々な事物や思考を知らないということです。
「自己の肥大化」というのは、現実世界での承認されなさ、実力不足なのにプライド高いなどの「捻れ」が生み出す、「私ってこうなんだぞ!」という態度です。
「勘違いした多様性」は前述したことにも繋がるのですが、「無知」「捻れたプライド」をも「でもそれがかけがえのない私、みんな違ってみんな良い😁」という考え方です。
んなわけねーだろ。
聡明なる読者やフォロワーの皆様はよく知っていると思いますが、「正義」やら何やらは「相対」です。
内面化し過ぎては意味がありません。
まぁこうしたいわゆるダメ三種の神器が揃い、絶対化した「正義マン」、いわゆる「ダメマン」が誕生するわけです。
コンテンツに関して
あらゆるインターネットコンテンツに関わる人は、こうした人々にコンテンツを届けている「可能性」と「自覚」が必要です。
そして、届けている側もまた、こうした人々が内包されている可能性を「危惧」するべきです。
昨今の炎上、まぁ炎上といっても昔の感覚で言えば焚き火くらいですが、このインターネットに蔓延るバカな人たちの齟齬が原因なことが多いと感じています。
批判と文句は違う
別に批判をするなとは言いません。
言いたきゃ言えば良いと思います。
でも批判と文句は違います。
批判というのは「きちんとした価値尺度」から良い悪いの判断をすることです。
「きちんとした価値尺度」というのは、一定の普遍性があるものです。
だけど、「正義マン」の価値尺度は「自分の正しさ」でしかないです。
だから「批判」にはならず「文句」にしかならない。
最後に
こんなことを何となく書こうとしたのは、特にVtuber界隈で炎上が多くなったなぁ〜と感じたからです。
皆さんも「正義マン」の正義執行に気を付けながら生きていきましょうね。
ちなみに出会ってしまったときの対処法ですが、相手はバカなので対処法はありません。
現実では殺人は犯罪ですが、インターネットにおける殺人ことブロックは正当な権利です。
ガンガンブロック(殺)しましょう。
インターネットって便利〜!
あとラーメンってうま〜い!
【ネタバレ、大丈夫?】『天気の子』の感想
僕たちは大丈夫!な人たちだけ読んでください。
それ以外の人は、早く見て。
『天気の子』観てきました。
最高の夏感を演出してから。
結論として言わせていただきますが、
これは「新海誠作品として、最高傑作」です。
そうじゃない人は、正直よく分かりません。
色んなことを考えたので、雑多に色んなことを書きます。
ちなみにシラフじゃないので、変なこと書くかもしれないけど、こういうのは衝動が大事です。
「100%の晴れ女」というフレーズで思い出すのは、村上春樹「ノルウェイの森」のキャッチコピー、「100パーセントの恋愛小説」です。
江國香織も本歌取りしたほどの名キャッチコピーですが、セカイ系や、冒頭の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(邦訳が村上春樹)など、村上春樹っぽさが多分にある映画だった気がします。
新海誠が村上春樹好きなのは自明なのでそれは置いておいて、僕がこの映画で評価したいのは、3.11震災後に転換を迎えたセカイ系という枠組みで、しかも「君の名は。」という誰にでも分かるハッピーエンドストーリーを爆発的にヒットさせた後に、この作品を作った、という点です。
3.11とセカイ系の関わりを簡単に、しかも自分なりにまとめると、フィクションの向こう側だった「世界の崩壊」がものすごく現実味を帯びてきて、僕らはフィクションに「救い」を求めるようになりました。
だって、現実が辛いのに、フィクションまで辛かったら、悲しいじゃないですか。
『君の名は。』はその「救済」を全てに対して行った、これはアンサーな気がします。
だからこそ、セカイも、皆も、とにかく全体を救うエンドが、そこにはありました。
それはそれで良かったです。
だけど『天気の子』はそうじゃありません。
確実にセカイは崩壊に向かっていく、しかも主人公とヒロインの手によって。
それでも彼/彼女は「二人でいること」だけを選んだんです。
この辺り『沙耶の唄』っぽさもありますよね。
よく言えば純愛、裏返せばセカイ中を不幸にしたストーリーと言えます。
この極地までセカイ系を突き詰めた点(普通は「あり得ない」「馬鹿げてる」からここまでには至れない)において、僕はこの作品を評価したいです。
僕が特に泣いちゃったのは、三年後に、帆高と陽菜が再開するシーンです。
もちろんRADWIMPSの曲とかいうチートもあったんですが、あそこで、あの場所で、陽菜は毎日、自分達が壊してしまったセカイが晴れることを、三年間、祈ってたんですよ。
それを見て、帆高は吹っ切れるわけですよ。
周りの大人が「元に戻っただけだ」「世界は元から狂ってる」「気にすんな」とか言ってたのを全部否定して、自分達がセカイを変えたことを、自覚していったんです。
だから、ずっと何を言おうか考えてた帆高は、最後に「僕たちは大丈夫」って、ようやく言えたんですよ。
いやエモいでしょ????こんなん????
ストーリーだけ追ったら馬鹿げてますよ、そんなこと15、6歳が、出来るわけないんですから。
でもそれを圧倒的に捩じ伏せる勢いが、この映画にはありました。
なんで僕たちがセカイに迎合しなきゃいけないんだ、それがどうした、そんな勢いです。
そんな馬鹿げた勢いのある映画、久しぶりでした。
とても、よかった。
また、今回は「大人」が「子供」を馬鹿にしている構図が頻出していて、それはまさしくこの映画を批判する大人を描くことにも成功していて、ある種卑怯な手ですが、新海誠が自覚的にこの作品を紡いだことが如実に分かりました。
最後に、あえていいますが、描かれていないものを想像するのって、楽しくないですか。
それが分かってもらえる映画だと、信じています。
あれ、、、2回目、、、???
※セカイ系・・・簡単に言えば、「僕(主人公)」と「彼女(ヒロイン)」の関係性が、そのまま世界の終わり・破滅・繁栄・再生に繋がる物語のこと。